2016年7月20日水曜日

ニートは個性か 戸塚ヨットスクールのやり方

子育てって難しい。
 他者と関わりあうのが嫌・苦手—という人間がいる。
 根底にあるのは、劣等感なのだが、劣等感から奮起する人間もいれば、その劣等感に押し潰される人間もいる。

 こういう劣等感に押しつぶされた人間の本来的にもつ「生きたいと願う力」「オレにも生きる価値があるのだと信ずる力」を、どうやって引き出せればいいのか---難しいところだ。

 一つの解答を提示している人がいる。
 それが、戸塚ヨットスクールの戸塚さんだ。

 以下、文章から抜粋。

 いまや体罰は「絶対悪」の時代だ。
 しかし、戸塚ヨットスクール校長で、過去、非難を浴びた 戸塚宏氏は、体罰肯定論者である。
 真意はどこにあるのか。ライターの中村氏が訊いた。

 今も、戸塚ヨットスクールは存在している。今は8人だ。
 昔は中学生ぐらいだったが、今下が高校生、上は40歳代である。
 「50歳過ぎて親に連れてこられるやつもいる。戸塚ヨットスクールに入れる親は鬼だって書き方をする。だから、精神科、フリースクールに行って、でも何ともならなくて、最後の手段としてくる。その頃には、40歳、50歳になってる」

 5年前から、3歳から12歳までの幼児を対象に一週間前後の合宿「戸塚ジュニアヨットスクール」を毎月、開催。
 「結局、教育は幼児からやらんと手遅れだとわかった。幼児のときにやれば、あとは自分で自分を伸ばすことができる」

──著書には、体罰は肯定しているけど、事件後は封印した、とありました。
 「封印してない。違法じゃないから。そんな法律はない。体罰禁止は学校教育法の中にあるだけ、民法の中にはない。
 体罰を使った方が、この子たちはうまくなると知ったんで、うちは株式会社にした。でも、そうしたらマスコミは株式会社が教育をやるのはけしからんと」

──著書には、もう手は出していないと書かれていましたが。
 「してない、と言っとかないと」

──今回の記事で、今の発言を書いてもいいんですか。
 「いいですよ」

──子どもを預けに来た親には体罰を行うこともありますと言う?
 「親に対しては一切口を出すなって言う。うちの教育者たちはプロ中のプロとの自負があるから。
 うちのスタッフに比べたら、ほかの教育者なんてみんな素人。
 親は口を出さない。これが条件。口を出すんだったら、最初から預からない」

 狂信的な言葉に聞こえる。
 ただ、戸塚がここまで言う背景を顧みて辿り着くのは、私が取材した高校野球部監督の言葉だ。 
 その高校は一昔前まで、素行が悪い中学生が辿り着く場所であった。
 「うちの学校の子と、進学校の子を一緒にしたらあかん。今の風潮だと、問題を起こす子は取らないのがいちばん楽。でも、そうしたら、どこにも行けん子はどうしたらええんや?」

 戸塚も「捨てる方が冷たい」と。
 戸塚ヨットスクールは原則的に、精神疾患者、知的障害者、自閉症の子以外にはすべて門戸を開く。ただし、戸塚は精神疾患と診断された子どもの8割が誤診だと言い切る。

 「学校が手に負えんやつに、病名を与える。発達障害の子どもって、増えてる。あんなのインチキや。そう言えば学校の責任じゃなくなるからでしょ。
 昔から、自分の子どもを精神疾患だと言われ、納得できない親がうちに連れてくることがよくあった。やってみると、10人中8人は治る。昔はそういう子どもを発達障害なんて言わんやって」

 教育現場では「個性」が尊重される時代だという。
 「ニートまで個性だなんて言い出すから、日本の教育がおかしくなった。中学生の女の子が売春して、私の権利でしょと言う。おかしい。

 今の教育者は、子どもに恥をかかしちゃいけないって言うけど、悪いことをしたら引っぱたかれる。 それがトラウマとなって悪いことをしなくなる。これが人間のあり方よ」

 ただ、戸塚の意見を暴論だと捨てることができないのも感想である。
 万能薬が存在しないように、ありとあらゆる子どもに通用する教育論などありはしない。そして効く薬に害があるように、効果的な教育には負の側面もある。
 「体罰」というコミュニケーションが必要な子どももいるのかもしれない。

 体罰を容認するかしないは別として、教育を考えるとき「体罰=悪」と何でもかんでも一緒くたにするのではなく、そう思いを巡らせることができるスペースぐらいは残して置いてもいい。

■戸塚宏/戸塚ヨットスクール校長。名古屋大学工学部卒。1975年、沖縄海洋博記念「サンフランシスコ─沖縄単独横断ヨットレース」優勝。1976年、愛知県美浜町に戸塚ヨットスクールを開校。

補足、感想など

 筆者は戸塚さんのやり方にほぼ与している。
 殴らずして、蹴っ飛ばさずして、どうして子供の躾・教育ができるのか—と思う。

 記事で発達障害—とか記述される人間って、冒頭でふれたように、劣等感に押しつぶされた人達なのだ。
 顔がへちゃむくれだとか、勉強ができないとか、足が短いとか—劣等感の中身は様々であろう。

 劣等感をバネに奮起する人もいれば、押しつぶされる人もいる。
 核心は、この劣等感に押しつぶされた人達が本来的にもつ「でも、オレだって生きる価値がある筈だ—と信ずる力」をどう引き出してやれるか、なのだ。
 戸塚さんは、それをヨットの訓練の中で見出した。

 もう30年前ぐらいかな。
 ヨットスクールの練習生が2人死亡したことから、戸塚さんへ非難が集中し、戸塚さんは懲役刑を受けている。

 上でふれた。
 「こんなオレでも生きる価値がある筈だ—と自分を信ずる力」を引き出してやれる手段が、この世の中にどれだけあるか。
 ヨットに乗る訓練という過程の中で、戸塚さんが見出したものだろう。

 <このあたり、分からない人間にはいくら言っても分からないか---。人間が本来的に持つ力を表面に引き出してやる--とでも言えば、本質に近づいたかな>

 体罰がどうたら、暴力がどうたら—なんて、末梢な議論に終始するな。
 どうしたら、「自分を信ずる力」を引き出してやれるか—というところに着目すべき。