2016年7月16日土曜日

日本人はユダヤ人のことなどなにもしらない

日本人にとって、ユダヤ人というのは外国人の一つにすぎない。
 他の外国人とどう違うのだ? と聞かれてもなにも分からない。

 だから。
 日本という国は、ユダヤ人が差別されない数少ない先進国の一つだ。
 いや、なにかというとピーター・フランクルというハンガリー系ユダヤ人が差別がどうたら—と日本で講演していて、違和感を感じたものだから---

 日本では分からないが、中欧などにいくと、ゲットーという言わば貧民街のようなものがある。
 ユダヤ人という人たちは、キリスト教徒から言えば「異教徒の郷に従わない」人達だ。

 類似の民族としては、中国人、韓国人などがいる。
 世界のどこにいっても中国人街というものが存在する。
 中国人も「郷に入っても郷に従わない」人達なのだ。

 だから。
 地元の人間にとっては、不気味に感ずるのだ。
 特に、ユダヤ人は真っ黒な服装をして、ヒゲも伸ばし放題だし---
 宗教も違うし、敬遠されて無理もない人達だ。
 十字軍の頃からというから歴史としては古い。

 そのあたりを無視して、「差別するな」的な発言をするのはどうなのか。
 敬遠され不気味がられ、近づくまいとするのが当たり前ではないのか。

 以下、新聞から抜粋。

 数学者で大道芸人のピーター・フランクルさんが、「21世紀は人権の世紀になるか」と題して講演し、「世界にはまだまだ差別が残っている。日本人は世界の模範になってほしい」と訴えた。

 ハンガリー生まれでユダヤ人のフランクルさんは、幼少期に「臭いユダヤ野郎!」と隣人から言われたという被差別体験を紹介。

 日本の部落差別についてもいろいろ調べ、実際に差別に苦しんだ人たちからも話を聞いてきたという。
 「差別がなくならないのは『再生』するから」として、差別意識が祖父母から親、子や孫へと伝わる中で被害が繰り返される現状を指摘し、「この再生こそ断たなければならない」と。

補足、感想など

 なんとかされたばっかりで、話が進むものか。
 冒頭でふれた。
 日本人にとって、ユダヤ人って外国人の一つとしか理解されていないのだ。

 だから。
 差別がどうたら—言われたところで、日本人にはなんのこっちゃい--なのだ。
 要するに、ユダヤ人が日本で差別されないのは、日本人がなにも知らないからだ。
 差別ばなしなんて、日本人には意味の無いことだ。

 フランクルさんが講演するとするならば、西欧のどこかで言ったらどうだ。
 ヨーロッパ諸国の人々は、ユダヤ人という非寛容な民族とその歴史を知っているし、ゲットーという貧民窟も知っている。

 彼らに向かって、「ユダヤ人を差別するな」--とか説得してみたらどうだ。
 ヨーロッパ諸国の人達からは、じゃ「キリスト教徒になったら」とかいうような返事が返ってくるだろう。

 そのあたり、日本人は、各国へ散らばっても、郷に従って溶けてしまう。
 日本人街というのも、殆どあるまい。まぁ、日本人は宗教的な縛りが弱いからだろうな。

 差別するな—という言葉を言うのは容易だろう。
 でも、上でふれたように「絶対に回りに溶け込んでたまるか」という意思表示をする民族を、敬遠して近づくまいと思うのは当然ではないのか。