▲日本人にとって、ユダヤ人というのは外国人の一つにすぎない。
他の外国人とどう違うのだ? と聞かれてもなにも分からない。
だから。
日本という国は、ユダヤ人が差別されない数少ない先進国の一つだ。
いや、なにかというとピーター・フランクルというハンガリー系ユダヤ人が差別がどうたら—と日本で講演していて、違和感を感じたものだから---。
日本では分からないが、中欧などにいくと、ゲットーという言わば貧民街のようなものがある。
ユダヤ人という人たちは、キリスト教徒から言えば「異教徒の郷に従わない」人達だ。
類似の民族としては、中国人、韓国人などがいる。
世界のどこにいっても中国人街というものが存在する。
中国人も「郷に入っても郷に従わない」人達なのだ。
だから。
地元の人間にとっては、不気味に感ずるのだ。
特に、ユダヤ人は真っ黒な服装をして、ヒゲも伸ばし放題だし---
宗教も違うし、敬遠されて無理もない人達だ。
十字軍の頃からというから歴史としては古い。
そのあたりを無視して、「差別するな」的な発言をするのはどうなのか。
敬遠され不気味がられ、近づくまいとするのが当たり前ではないのか。
以下、新聞から抜粋。
数学者で大道芸人のピーター・フランクルさんが、「21世紀は人権の世紀になるか」と題して講演し、「世界にはまだまだ差別が残っている。日本人は世界の模範になってほしい」と訴えた。
ハンガリー生まれでユダヤ人のフランクルさんは、幼少期に「臭いユダヤ野郎!」と隣人から言われたという被差別体験を紹介。
日本の部落差別についてもいろいろ調べ、実際に差別に苦しんだ人たちからも話を聞いてきたという。
「差別がなくならないのは『再生』するから」として、差別意識が祖父母から親、子や孫へと伝わる中で被害が繰り返される現状を指摘し、「この再生こそ断たなければならない」と。
▲補足、感想など
なんとかされたばっかりで、話が進むものか。
冒頭でふれた。
日本人にとって、ユダヤ人って外国人の一つとしか理解されていないのだ。
だから。
差別がどうたら—言われたところで、日本人にはなんのこっちゃい--なのだ。
要するに、ユダヤ人が日本で差別されないのは、日本人がなにも知らないからだ。
差別ばなしなんて、日本人には意味の無いことだ。
フランクルさんが講演するとするならば、西欧のどこかで言ったらどうだ。
ヨーロッパ諸国の人々は、ユダヤ人という非寛容な民族とその歴史を知っているし、ゲットーという貧民窟も知っている。
彼らに向かって、「ユダヤ人を差別するな」--とか説得してみたらどうだ。
ヨーロッパ諸国の人達からは、じゃ「キリスト教徒になったら」とかいうような返事が返ってくるだろう。
そのあたり、日本人は、各国へ散らばっても、郷に従って溶けてしまう。
日本人街というのも、殆どあるまい。まぁ、日本人は宗教的な縛りが弱いからだろうな。
差別するな—という言葉を言うのは容易だろう。
でも、上でふれたように「絶対に回りに溶け込んでたまるか」という意思表示をする民族を、敬遠して近づくまいと思うのは当然ではないのか。