▲まぁ、失敗作といえば失敗作かな。
ふん、ゆとりが—とか、どうせ、ゆとり世代だからなぁとか一生言われ続けるだろうな。
まぁ、そう言われて悔しかったら、勉強すればいいこと。くそっと頑張ればいいこと。
筆者は、団塊の世代だが、生まれてこのかた大勢の同級生の中で生きてきた。
なにをやるにしても、競争相手が多いものだから--
ゆとり世代と大差のない話だ。
つまり、なんらかの外的な影響で、ある「境遇に陥ったということ」だ。
団塊の世代は、先の大戦の終戦直後ということだし、ゆとり世代は、学校の教師は聖職ではない、労働者だ、だから土曜日は休みたい—などと騒ぐ日教組あたりが原因であろう。
土曜日を休むためには、学科数を減らせばいい・教科書を薄くすればいい—てなことを考えた結果だろう。
そんなことをやっていると、円周率も3.14 → 3 でいいや—てはアホなことを言い出す教師が出てきたのだ。
で。
これでまともな人材が育つか—と科学系の学者達から猛烈な批判が殺到して、ようやく、ゆとり教育も終焉を迎えたということだな。
どうだ。
このゆとり教育というもののそもそもの原因が、「教師も土曜日を休みたい」---ということから出発しているという点に呆れないか---。
大きく「子どもの教育をどうするか」てな高所大所からの話しなんぞではないのだ。
教師達が、オレも土曜日を休みたい—そのためにはどうすればいいのか—というところから出発しているというこの「低次元さ」をみよ。
これが、日本の教育者の発想だ。(まぁ、日教組のエベンキ族の考えだろうが--)
以下、新聞から抜粋。
馳浩文科相が「脱ゆとり教育」を宣言し、ゆとり世代から反発の声が上がる。
馳氏は5月の会見で「ゆとり教育を全否定するものではない」と前置きし、「ゆとり教育が『緩み教育』と間違った解釈で浸透してしまったのではないかと現場の声」があると。
どこかでゆとり教育との決別を宣言すべきだと考えていたと明かし、次期学習指導要領の“脱ゆとり教育”を宣言した。
「ゆとり世代」と呼ばれるのは1987年4月~1996年3月生まれ。実験台世代ともいわれ、国策に翻弄された。
国が「ゆとり教育は間違いでした」と判断したことに、ネット上では「自分たちは失敗作か」「ゆとり世代という言葉が差別的に使われるようになる」と。
実際、ゆとり世代という言葉が差別的に使われる場面が増えた。総研が4月に発表した調査(ゆとり世代の男女688名が対象)によると、その特徴としては「打たれ弱い」「仕事の付き合いよりもプライベートを優先」「スマホ・ケータイ依存」「出世にこだわらない」といった点が挙げられる。
結果、ゆとり世代は「協調性がない」「すぐに仕事を辞める」「こらえ性がない」の理由で、上の世代からバッシングの対象にされる。
ネット上でも「だからゆとりは……」といった書き込みが目立つ。「ゆとり」の一言で相手の人格を全否定する場面も。
調査では「“ゆとり”と呼ばれることについてどう思いますか?」という質問に半数以上(57.7%)が「嫌だ」「どちらかというと嫌だ」と答える。
本当に「ゆとり世代」は世間のイメージ通りのダメ世代なのだろうか。
「ゆとり世代の特徴とされる『協調性がない』『こらえ性がない』といった点は、昔から先輩世代が下の世代に『近ごろの若いモンは……』と嘆いてきた内容と変わらない。
『出世を望まない』という特徴も、単に報酬と釣り合わない労働や責任を拒否しているという至極当然の理由。もし世代の傾向があるとすれば、社会や生活環境の変化が原因と考えるのが妥当ではないか」
そもそもゆとり世代は決して、ゆとりのある世代ではなかったとの指摘も。
「物心がついた時点で日本は先の見えない不況。世界的な金融危機の影響などにより、大多数は就職氷河期に直面。社会人になった途端に東日本大震災の混乱を経験するなど、彼らの上司に当たるバブル世代より苦労している。
中には“ゆとりモンスター”といえるような若者もいるでしょうが、それは個人の問題であって世代でひとくくりにできるものではない。『ゆとり世代』という幻想が生まれ、それが新たな若者イジメに発展してしまったようにも感じられます」
ゆとり世代を取り上げたドラマ『ゆとりですがなにか』でも「世代でひとくくりにはできない」というテーマが根本にある。ゆとり批判の正体は繰り返されている「最近の若いモンは……」の派生形なのかもしれない。
▲補足、感想など
団塊の世代はどうたらと、ゆとり世代はどうたら—と変わりはあるまい。
ふん、団塊の世代か—とふん、このゆとりが--とか言われるもの大差のない話しだろうな。
馬鹿にされていると感じるなら、勉強すればいいこと。
なにかゆとり世代が国策でどうたら—書いてあるが、実際は冒頭で書いた通りだ。
要するに、「俺達も土曜日に休みたい」と教師達が望んだことが原因さ。
このあたりが、日本の奇妙なところだな。
単なる教師達の労働時間をどうするか---という問題が、いつの間にか、アレコレ尾ひれやら、装飾文がまとわりついて「子どもに優しいゆとり教育」なるものに変化していくのだ。
責任を問われないための、迂回して訳が分からなくしているのだろうな。
旧文部省の小細工と言えば、そう言えるか。