2015年4月3日金曜日

京都のサクラ。

京都は快晴だった。
 サクラは満開であった。

 快晴で、満開で、今年の見納めで---
 3つ揃うということも珍しかろう。

 清水寺の界隈は、中国語がアチコチから聞こえる。
 
 海外の掲示板をみていると、「花を愛でる」という習慣そのものが珍しいらしい。
 なるほど、サクラを見てお腹がふくれる訳ではない、お金儲けになる訳でもない。
 無駄なというか無用な遊びなのだろうな。

 中東あたりの宗教がらみの争いをみていると、そりゃ、こういう地域で「花見」などという遊びというか習慣が根付く訳もあるまいなぁと思う。

 花見という習慣が根付くためには、多くの条件が必要だということが分かる。

 まず、サクラというものを改良する技術が必要であろうし、それを接ぎ木などで数を増やし、栽培する場所・技術が必要だ。
 サクラを見る—という習慣が生まれるには、平穏な平和な期間が長くづづく必要もありそうだ。
また、為政者がそういう遊びを許容する必要もあったろう。

 なるほど、世界でも数少ない国にしか根付かない習慣ではある。

 平安の頃の歌を少し並べてみよう。

33 久方の光のどけき春の日に しづこころなく花の散るらむ     紀友則
61 いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな   伊勢大輔
96 花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり 入道前太政大臣
33 久方の光のどけき春の日に しづこころなく花の散るらむ     紀友則
35 人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける     紀貫之
61 いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな    伊勢大輔
66 もろともにあはれとも思へ山桜 花よりほかに知る人もなし     大僧正行尊


 千年も前の和歌が、今でも少しも古びることもなく、心に響いてくる。
 一体、これはなんなのだろう。
 日本人ってやつは、実物のサクラで、和歌で、歌で「春の訪れ」を楽しむことができる。

 京都・丸山公園の枝垂れ桜は、まさに満開であった。
 来年も、こんなサクラを見ることができることを期待しよう。