▲いや、奇妙な表題となった。
なんのことがというと、中国人が自らのパクリ癖を認め、でも—本家本元は日本だ--とか言い始めたのだ。
なるほど、と筆者は思った。
そう言われたことがあったなぁ、--と。
パクリというより、「真似する」とか昭和20年代-50年代頃まで言われたのかな。
でも。
このパクリというか真似する—というか、そんな行為でも日本人の場合にはちょいと違う。
真似する--、パクリ--を「守破離」という様式というか、型式にしてしまうのだ。
守破離(しゅはり)の説明を転記してみよう。
--ここから--
伝統を受け継ぐ者にとって忘れてはならない、特に武道にとっての教えが「守破離」である。
「守」とは、師や各流派の教えを忠実に守り、それからはずれることのないように精進して身につけよ、という意味である。
「破」とは、今まで学んで身につけた教えから一歩進めて他流の教え、技を取り入れることを心がけ、師から教えられたものにこだわらず、さらに心と技を発展させよ、という意味である。
「離」とは、破からさらに修行して、守にとらわれず破も意識せず、新しい世界を拓き、独自のものを生みだせ、という意味である。
「守破離」は単に武道の世界だけの教えではない。
学問も経営も技術も、すべてにあてはまる。
師に教えられて師に止まっていては発展はない。
古武道に出発して古武道の中で止まっていたのでは、後継者としての存在価値はない。
師をしのぎ、伝統を越え、親を超越して、より高い次元に発展成長してこそ文明の進歩がある。
「守破離」とはその意味の言葉である。
--ここまで--
以下、新聞から抜粋。
2015年3月18日、羊城晩報はブランド戦略の専門家である李光闘氏による「実は日本こそがパクリの元祖である」とするコラムを掲載した。
人々はいつも中国のパクリを非難するが、実は日本こそがパクリ界の元祖だ。
日本は古くからずっと強者のまねをし、学んできた。
それは、文字の伝播から衣食住、交通、科学技術にまで至る。
日本は模倣の中から新しい物を生み出すことで、日本、日本企業、日本文化の急速な進歩と発展を実現してきた。
一方で中国企業はというと、改革開放から数十年、外資や技術を引き入れたことで国内にも優秀な企業がたくさん生まれた。
その製品の技術は、多くが海外製品の模倣だ。
しかしこれまでのところ、模倣を通してオリジナルを超えた企業は、ほとんど存在しないのである。
▲補足、感想など
中国人の場合、守破離 が「守」だけにとどまってしまう—ということだろう。
「破離」がないのだ。
日本人と中国人の「違い」はそこにある。
そもそも、中国人には「パクリ」を「守破離」という型式で認識していまい。
また、パクリをその形式美まで昇華しきれていない—ということであろう。
さすがに、英国の産業革命に200年も遅れる大ノロマ民族ではある。
こうしてみると、中国の自らいう5千年の歴史なんてものがいかに空疎なものが理解できる。
パクリならパクリでもいい。
それを「守破離」という形式美に高めるべく努力すべきだ。