▲どの口で、言ってんだ?
そう思わないか。
日頃、散々、反日行動をとり、人質までとっておいて、苦しくなると知らん顔をして、日本へたかりにくる。
それを拒否したら、「幼稚」だとさ。
よくも、半世紀以上もこんな腹黒民族と関わってきたものだ。
戦後レジームというものが、どれだけ、日本人を・韓国人をねじ曲げてきたのか—よく分かる。
先日、こういう腹黒民族との「縁切り」を、麻生さんが、悪鬼羅刹のようなものいいで、宣言した。
また、歴代の自民党の首相達が一堂に会して「戦後レジームの完全崩壊」を祝う祝賀会が開催された。
で。
繰り返すが、先日、日本は韓国との「縁切り宣言」をした。
以下、韓国の新聞から抜粋。
ポスコが危機に陥ったとき、日本に向かった
日本人は惜しみなく韓国を助けた
その「大物の時代」を読むと、今の韓日関係は貧弱だ
日本で青少年期を過ごした元ポスコ朴泰俊は思い出を本に記録した。
米軍の爆撃があった日、防空壕で起きたことだ。「この日はおばあさんたちが立ち上がった。『若い人は奥に入りなさい。危険な所は私たちが守る。どうして本を持って来なかったんだい? 若者は本を開いて勉強しなさい』。
防空壕でおばあさんに叱られたときは「植民地の大学生の胸に染み入り、故国に対する責任感を呼び覚ました」と述懐した。
朴泰俊が後に浦項総合製鉄(現・ポスコ)を興すに当たり、「恩人」と呼んだ日本人がいる。
その一人は陽明学者・安岡正篤だ。
総合製鉄所プロジェクトが米国などに断られたとき、韓国は日本に助けを求めるしかなかった。
朴泰俊が会ったのが安岡だ。
安岡は「過去を反省して、韓国を助けることが日本の国益」という韓国観を持っていた。
安岡は稲山嘉寛・日本鉄鋼連盟会長の所に朴泰俊を行かせた。
朴泰俊の情熱に安岡の誠意が助けとなり、日本政府や日本企業の態度は支持に変わった。
サムスン・グループ初代会長の李秉喆も残している。
李秉喆は廃虚となった終戦直後、東京の理髪店での出来事も書き残している。
「この仕事はいつからしているのか」と、店主は「私が3代目なので、家業としてはかれこれ60年くらいでしょうか。うちの子も継いでくれたらと思うのですが…」と答えたという。
李秉喆は「『日本は滅びない。絶対に再起するだろう』とそのとき思った」と書いた。
1983年8月、「ブーメラン効果」を盾に日本の鉄鋼業界が光陽製鉄所建設への協力を拒んでいたとき。瀬島龍三や稲山嘉寛が一緒にいた。
彼らから「協力する」との約束を取り付けた李秉喆は「ほかの言葉はいらない。『感謝している』とだけ言いなさい」と朴泰俊に言った。
李秉喆もこうした壁を乗り越えていた。日本の半導体メーカー・シャープの果たした役割が大きかった。日本が海外に半導体技術を提供した初のケースだったのだ。
「シャープの格別な好意だった」「シャープを国賊だと酷評する企業もあった」と。
マイナス成長にあえいでいた1980年、韓国にとって日本の支援はそれほど切実なものだった。
その日、朴泰俊が約束を反故にしなかった日本の政治家は安倍晋太郎だ。安倍晋太郎は生涯、韓国との友好に力を注いだ。
「大物たち」の時代だった。もちろん、当時も確執はあった。しかし、大きな流れは大物たちが胸に抱く「大義」を基準に動いた。
豊かさを手に入れ、切実さがなくなったせいだろうか。
国が老いて包容力がなくなったせいだろうか。
あの時代の記録を読むと、今の韓日関係は小さく薄っぺら、幼稚で拙劣だ。
▲補足、感想など
笑ってしまう。
俺たち、弱くて被害者だ—と精一杯アピールしているということか。
冒頭でふれた。
もう、日本の戦後レジームは完全崩壊した。
そして、麻生さんが韓国との縁切り宣言をした。
もう、韓国は、日本人にとって、関わらない、助けない、教えない—どうでもいい国だ。
仮に、このまま韓国が経済破綻するとしても、それは自らが選択した道だ。
自分の言動・行動などで、撒き散らした種が、成長し、その果実を自分の手で収穫せざるをえなくなったということに過ぎない。
さらば、さらば、韓国。