▲元慰安婦達の証言の一番の矛盾点は、表題だ。
ある日、突然14歳の自分の娘がいなくなって、なにもしない親なんていない。
そりゃ、誘拐ではないか。
親も探すし、当然、警察は誘拐事件として捜査する。
ところが、元慰安婦のおばあさんの証言には、親がどうしたとか警察がどうした—という話が一切でてこないのだ。
どこそこに行くという話でいったら、そこは慰安所だった—てな話ばかりだ。
この一連の現象をうまく説明できるシナリオはたった一つだ。
つまり、元慰安婦が知らない内に、親が高額の前払い金を受け取って、娘を民間の女衒業者へ売り払ったということだ。
女衒業者は、なにか適当なことを言って、この親に売られた娘を経営する慰安所へつれて行ったということだ。
そりゃ、大半のお客が日本軍兵士であったろうが、それはいわば需要と供給という関係にすぎない。
慰安婦が親 → 民間の女衒業者へ売られていったことに、日本軍・日本国はなんら関係していない。
以下、新聞から抜粋。
金福童さんは89歳になり、視力や聴力も衰えた。
介助がなければ歩くことはできず、健康状態の悪化している。
それでも苦難を経験したか訴えたいと来日し、外国特派員協会で会見した。
旧日本軍の性奴隷として扱われた1940年から5年間の悪夢は、今も鮮明によみがえるという。
「私の願いは、過去についての記録を正すことだけ」
当時住んでいた韓国の村に日本人がやって来たのは、金さんが14歳の時だった。
自宅と家族から離れて縫製工場で働くほかに選択肢はなかったといい、「行かないという選択肢はなかった」「行かなければ反逆者とみなされていた」と。
しかし行った先は縫製工場ではなく、日本軍の売春宿だった。
30人ほどの女性と一緒に部屋に閉じ込められ、強要されてはならないことを強制されたと。
「私たちの仕事は兵士の活気を取り戻すことだった」「毎週土曜日には正午から行列ができ始め、午後8時まで続く。いつも兵士の長い行列ができた。
日曜日は午前8時から午後5時までだった。再び長い行列ができた。人数を数える機会はなかった」
それは極度の苦痛を伴ったと金さんは言い、「終わったあとは立ち上がることさえできなかった。
あまりに長時間続いた。日が暮れるころまでには下半身がまったく使えなくなっていた。
1年以降、私たちはまるで機械のようだった」と振り返る。
長年の虐待で身体には恒久的な影響が残り、子どもを持ちたいという夢をかなえることはできなかったと。
「最初の頃は私が従順でないという理由で日本軍に殴られることもあった」「私の苦しみはどんな言葉でも言い表せない。今も薬がなければ生きられず、常に痛みを感じる」
金さんは、日本に対する謝罪要求活動を展開しているNGOの1員。
過去には個人的に謝罪した首相もいたが、それだけでは十分ではないと同NGOは主張する。
日本政府は1965年に韓国と交わした日韓請求権協定でこの不正行為に対する法的責任問題は解決済みとの立場を変えていない。
金さんの証言は、「慰安婦」だったというほかの女性たちの証言と一致する。
米国を公式訪問した安倍首相に対し、韓国の李容洙さんが公式謝罪を求め、韓国人と中国人を中心とする推定20万人の慰安婦が日本の性的奴隷にされたと訴えた。
多くは既に死亡したが、生存者は個々に補償を求めている。
安倍首相に対しては、慰安婦は売春婦だったと考える保守層をなだめるために、過去をかき消そうとしていると批判する声もある。
▲補足、感想など
慰安婦は、戦時高給売春婦だ---。
それ以外に表現する言葉はない。
冒頭でふれた。
日本軍の基地近くにあったであろう慰安所で働き、お客も多くが日本兵であったろうが、基本、民間の女衒業者の本で働いていた売春婦だ。
日本軍の—ということではない。
なにか虐待を受けた--ような証言があるが、それが事実であったとしてもそれは、彼女達慰安婦を雇っていた女衒業者とその雇い人との間のトラブルに過ぎない。
日本軍・日本国となんの関係もない。
1945年までの日本と韓国との間でのいざこざ一切合切が、1965年の日韓基本条約で完全に解決済みだ。
日本は、今更、なんの謝罪も賠償もする必要はない。